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TOKYO N◎VA スタイル別コラム

―カブキ カブキはロックな人生を送れるか?

みなさんは「Cyberpunk 2.0.2.0」というシステムをご存知だろうか?

知る人ぞ知る、「TOKYO N◎VA」の元になったシステムである。とはいえ、ツクダホビー版(つまり1st)を作る際参考にされたもので、現在の「TOKYO N◎VA」のシステムとは似ても似つかない。

まぁそれはさておき、「Cyberpunk 2.0.2.0.」(以下サイパン)の世界には、「ロッカーボーイ(ガール)」というクラスがあり、ルールブックにも「物語の主人公」「ヒーロー」と明記されている。サイパンの世界は、この「ロッカーボーイ」を中心に回っているのだ。

「ロッカーボーイ(ガール)」は、ギターを武器、を主張として聴衆に訴え、心を動かし、彼らを煽動して警察や政府と戦う。そういった社会的ヒーロー像がロッカーボーイ(ガール)なのだ。

N◎VAの世界で「ロッカーボーイ」を置き換えるなら、職業上は間違いなくカブキになるだろう。しかし残念ながら、カブキはロッカーボーイのように「カブキなだけでヒーロー」にはなりえないだろう。

なぜか?ひとつは、世間的に「ロック=ヒーロー」という図式が認知されにくい時代になっているからではないだろうか。特に日本でのロックシンガーは、「偶像」ではあれ「憧憬」ではない者の方が多いのは明らかだ。エルビス=プレスリーや尾崎豊のように、その人の歌のレコードをかけながら、彼らの人生に憧れた日々を思い出し、彼らの死に涙できるようなロックアーティストは、今の日本には10人もいないだろうと思う。

わたしも「ロック」という言葉の全てを知るわけではないし、知っていたとしても、誰かに全てを伝えることはできないだろう。

カブキのイメージとして、「ギャンブル」というキーワードがある。悪く言えば「行き当たり場当たり」、良い言い方をすれば「人生は全て博奕である」といったところか。それを体現したスタイルであると言える。これも「ロック」な生き方のひとつと言えなくもない。

だがカブキとロッカーボーイは明らかに違う。たとえで言うなら普通の雀士と玄人ぐらい違う。

カブキのキーワードが「運」であるのに対して、ロッカーのキーワードは「力」なのだ。

カブキは武器も持たず、丸腰だとしてもその強運のみで銃弾の雨の中を横切っていく。

一方ロッカーは、ギターと言う武器を持ち、歌で聴衆に「力」を示し、そこで起こっている抗争ですらも止めてしまうのだ。そして人々はみなロッカーに煽動されていくのである。

実際、カブキはそれだけでは周りに示せる「力」がない。この違いは、ロッカーボーイがキャラクターをかたどる全てを内包した「クラス」なのに対して、カブキはキャストを作るための3つの「スタイル」のうちの一つであるのだから、比較してみて無い物が多いのは至極当たり前といえる。

したがって、ロッカーボーイのような反社会的主張を持ったロックシンガーを作りたいのであれば、カブキをペルソナとしてカリスマ・カゼ・レッガーあたりのスタイルが入ることになるだろう。こうしたスタイルの力を借りれば、カブキでもロックな人生を送ることができるようになるのだ。

他のスタイルによって導かれるものは「ビジョン」である。「大衆を歌で導く」「勝利者になる」というようなビジョンができることによって、キャラを立てるのに意味のなかった「運」というキーワードも使いどころを見出せて来るのである。

話は変わるが、Dに改版されてからの内輪の統計として、キャストのスタイルにカブキが少なくなった事実がある。これはシステム的なアドバンテージ(キー効果とデッキに入るジョーカーの枚数)がカブキになくなってしまったために起きていることだろう。

ではなぜそのぐらいでカブキをプレイする人が減ったのか?

私的推察としては、キャストを構成する3つのスタイルに、「カブキが入らない」からではないかと思う。

「運」のスタイルといっても、「プレイヤーに運試しをさせるスタイル」であって「運で乗り切るキャストを表わすスタイル」という意味でないし、カブキ自体に他のスタイルが示すような絶対的なイメージがない。

「芸術で人を虜にして社会すらも動かすアーティスト」という位置づけで特技や神業が作られていれば、カブキひとつでそういったキャラクターを表現するには足りるだろう。

しかし、カブキは「ニューロデッキの中の一枚」であり、現在のタロットにおける「愚者」である。

タロットを知る人ならば想像がつくと思うが、「愚者」は世界を渡り歩く物語の主人公であり、彼になにか目的があるわけではない。

つまるところ、「中身が無く、存在だけのもの」が「愚者」なのだ。したがってその意味を継ぐカブキに目的意識や確固たる欲求がないのは当たり前のことなのである。

欲求や目標が無いから、目で見たもの、感じたものに突き動かされて動く。その衝動理念をアーティストのそれに当てはめて、ペルソナとしている。ペルソナそのものは「世間体」という理性の象徴であり、本来カブキを当てはめるには相応しくないフェイスだが、「世界の中にいるひとつの存在そのもの」という意味では非常にマッチしているフェイスでもある。

また、カブキをペルソナに持つ者は、自分のペルソナが唯一にして無二の存在であることを、何より優先して主張するべきだろう。歌が上手いだけで個性のないアイドルは、売れないどころか注目すらされないのと一緒である。

まとめると、カブキを演る上でのキーワードは「本能」と「存在の誇示」ということになるだろうか。

本能の赴くままに行動することが自分の存在を見せることであり、それが結果として大衆を惹きつけ、よりビッグな存在になるとしたら、それもまた「ロック」な人生を歩んでいることにほかならないのではないだろうか。

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