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TOKYO N◎VA スタイル別コラム

XI カタナ「不殺(ころさず)」を貫くには

N◎VAにおける肉体戦スタイルといえば、真っ先に思いつくのがカタナだろう。「カタナ」という言葉自体に人を惹きつける魅力があるからだ。

カタナ(刀)といえば、日本古来から作られている刀剣類の総称だ。芸術的価値もさながら、9mmの拳銃弾を真っ二つにするほどの切れ味を持ち、その殺傷能力は世界でも随一のものだ。

本来刀は人を斬るためのものであり、それを持つ者も刀を使って人を斬る為の業を磨いた者がほとんどだ。

しかし最近は、「人を斬るための物」である刀を携えながら、「人を殺さずに倒す」というカタナが増えているような気がしてならない。

これはおそらく、某「不殺」の剣士を主人公とするマンガがファン層から絶大な支持を得て盛り上がった結果だと見て間違いないと思う。

本来人を殺すための剣術を修めた者が、戦いの中で人を殺めずに済ませる、という理念を持つためには、そこにたどり着くまでに様々な障害や葛藤が存在しただろうし、そうあるべきだろう。

この主人公の「不殺」という信条は、「幕末志士として人を殺しすぎ、挙げ句自分の妻さえも斬ってしまった」という裏付けのもとに確立したものであり、とってつけな設定ではないことは大いに認められる。

ただこれは、「人を殺さずに済む」ということが容易ではない状況において、いかに自分がその信条を貫けるかという葛藤があってこそ映えるものであって、刀で人を殺さずに済むことが容易であるN◎VA-Dの環境においては、ペルソナにカタナを掲げたキャストが「不殺」を貫く行為は滑稽にすら感じられる。

本来カタナは、人を殺す者であるべきなのだ。

R以前の《死の舞踏》は、使うと防御されない限り必ず人が死んでいた。従って「不殺」を貫くためにはカタナというスタイルは邪魔になっていた(使うと人を殺してしまうし、使わないと経験値をもらえない)。

それが最近では、カタナは神業によって、気絶させることすらも自由にできてしまう。これはカブトワリやカリスマといったスタイルについても同様だ。

「神業を使ってしまうと相手を殺してしまう」というストレスがなくなり、「不殺」をいとも簡単に表現できるようになってしまったため、「カタナで不殺を貫く」ということがひとつのドラマとして成立しなくなってしまっている。

殺気を持つ人間に対して殺さずにすませる、という行為は、よほどの格の差がないと出来ない行為で、人が死んでも世界にそれほど影響しない(ニュースなどにもならない)トーキョーN◎VAでは、その行為が生きるためにどれだけ不利なことか、わかるだろう。

しかし「ドラマを成立させる」ということを考えると、敵を殺さずに済ますと言う行為は、むしろ殺すよりも価値のある行為であることが多いが、説得などによらず腕づくでたたき伏せても、簡単に殺さずに済んでしまうのがドラマとしてはよくないところだ。

とはいっても、システムがすでにそう変わってしまったのだから、諦めざるを得ないというのが現状だ。諦めざるを得ないのなら、次は「不殺」をどうやって演じようか?という話に切り替えてみよう。

これはプレイヤーのタイプや、環境に大きくよるものだが、キャストの設定をおおっぴらに明かしてもいいかどうか、で演じ方も変わってくる。

人を殺すべきカタナが、人を殺さ(殺せ)なくなるには、そのキャストにとって、大きな転機となった出来事があるべきだろう。

キャストの自己紹介をプレアクトなどで行うとき、自分が「不殺」であることを明かすなら、どうしてそうなったのかもきちんと言うべきだろう。「ブランチで〈不殺〉取ってます」と言うだけ、とかは言語道断だ。自分の身の上をきちんと明かさないと、同情も納得もしてもらえないし、「不殺」という言葉が薄っぺらなものに取られてしまいがちになるからだ。

なぜそうするべきか?なぜかというと、「不殺」キャスト(人を殺すためのスタイルをペルソナにしているのに、殺さないのを信条にしているキャスト)は他の「殺す」キャストから見たら邪魔でしかないからである。

同じ戦場で斬った張ったしているのに、いざとなったら殺せない、という人間に、誰が「戦友」と呼べるか、という話である。敵意を持った者を目の前にして、一瞬でも敵を殺すことに躊躇することは、イコール味方を死の危険にさらすことにもなるのだ。信頼していなかろうが、不和な関係だろうが、アクトの構成上「クライマックスは全員で戦闘」になりがちなN◎VAの世界では、これは大きな問題になる。

そういった邪魔者っぷりを多少なりとも和らげるためには、しっかりとしたバックボーンを以て他のキャストを同情なり納得なりさせたほうがいいだろう。

最初から身の上を明かすのがイヤだ、というのなら、最初から「不殺」と名乗らず、アクト中で「不殺」であることと、そうなった理由を明かすタイミングを伺うほうが面白い。

先程も述べたように、「不殺」のキャストは「殺す」キャストにしたら邪魔でしかない。なぜなら、殺せる相手をあえて殺そうとせず、それを他人にまで押し付けようとするからだ。

そういった場面では、「殺す」キャストとの意見の衝突などもしばしばあるだろう。そういったキャストは、自分の身の上を明かしただけではたいてい納得も同情もしてくれないので、それ以外の方法でそのキャストとの折り合いをつける、というのがいいだろう。

つまりは、「自分はただの邪魔者じゃない」ということを、アクト毎にちゃんと明かさねばならないのだから、わかってもらおうとすると、キャンペーンでもない限りはかなりの労力になるんじゃないだろうか(たいていはわかってもらえないだろうから)。ただ気をつけなければならないのは、そのことだけに気を取られていて、アクトに入り込んでない、という状況だけは回避しなければならないだろう。

戦闘バカのスタイル構成をしているキャストが心得ることは、「自分は人を殺すための(能力しかない)キャストだ」ということを肝に銘じることで、政治や法律などに口をだすことではない。そしてカタナとは、その抜き身の刀の織りなす刃文が、美しい紋様と輝きを引き出すかのように、業(わざ)は美しくあるべきだと思う。

「カタナが人を殺さない」ということは、「本懐を全うしない」ということにほかならない。本懐から外れた道を進むというのはイバラの道であり、ラーメン職人が店でフランス料理を出すというくらい思いきった決断であるのだから、「不殺」をやると言った以上、「結局殺しちゃった」ということのないよう、「不殺」を完ぺきに貫いてもらいたいと思う。そうすれば、道を外れて「汚れた」ものも次第に美しく感じるようになることだろう。

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