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TOKYO N◎VA スタイル別コラム

XIV チャクラ “ウェット”の美学

ニューロエイジにおいて“ウェット”であるということは、CDであり、弱いことである。

強力なサイバーウェアの恩恵を受けることを拒絶し、便利なウェブ社会を否定して生きるのだから、そう言われてもしようがないだろう。

近年でも注目されている、俗に言う「サイバーウェア」は、使えなくなった身体部位の補填が主な目的で、人体強化という要素を持つには至っていない。しかし、ニューロエイジにおいてはサイバーウェアをインストールしていることが「当たり前」のことであり、そうすることを拒んだ“ウェット”は異端なのである。

しかし“ウェット”であることを選んだ人間には、“ウェット”であることをそのようにはとらえていないし、「強さ」に関してはむしろ逆である。

彼らは自らの肉体を鍛えれば、サイバーウェア以上の能力を引き出せることを知っているのだ。しかしそれを実行するためには、限界まで己の肉体や精神を鍛え抜かなければならないし、もしどちらかのバランスが崩れてしまってもそれは為しえないだろう。

だから彼ら“ウェット”からして見れば、お手軽に強さを望んでサイバー化に走る現在のニューロエイジの人々のほとんどは、「弱い」生き物だと言えるのだ。

サイバーウェアは自らの能力を高めてくれる。がこれはあくまで「高めてくれる」という他力本願のモノでしかない。人から与えられた力、人に植え付けられた戦術。“ウェット”はそういうものを必要とせず、己を高めることでそこまで達しようとするのだ。

芸術においても同じことが言える。ファッションモデルやマネキンといった、「身体の美」を表現する者が“ウェット”にこだわるなら、「人が作った美」(モデル用の全身義体やホルモンバランスを整えるインプラントなど)を否定し、自分の肉体美はあくまで自らの身体で作るものだという主張を持っていることだろう。芸術家においても、他人に与えられた芸術センスなどには頼らず、あくまで自分のセンスのみを信じ、作品を作るだろう。

端的に言うなら、“ウェット”は「頑固者」ということなのだろう。時代の流れにあえて逆らってでも己の道を進む。そうしてできた「己」という作品に、美学を持っているのだ。

「チャクラは“ウェット”であれ」。わたしの考えるチャクラの美学である。

チャクラだからといって、特に“ウェット”である必要はないし、チャクラでもサイバーウェアで強化することを望む者が多いだろう。

しかしチャクラは、肉体と精神の調和への探究者であり、修行者である。かりそめの機械の身体で得る力は、真に自分の得た力ではない、とチャクラならば考えるべきじゃないかとまで思う。

もちろん、チャクラであるというだけでここまで徹底する必要はない。これはあくまでわたしの私的な美学であって、他人に押し付けるものではないからだ。

ただ、チャクラであるなら、それがペルソナであろうがキーであろうが、修行者であるべきだと思うし、CDな思考を多少は持っているべきであると思う。チャクラにはそういったギャップが必要だろうし、そうでもしないとチャクラをチャクラとして見てもらえないからだ。

その究極となるものが“ウェット”である。これ以上なにかを言うでもなく、時代に逆行した鍛練という形での自己の強化を望み、それを為し得る強い精神力を持つスタイルとしてのチャクラは、もっとも“ウェット”にふさわしいスタイルだといえるだろう。

イメージして見て欲しい。“ウェット”のチャクラが、ギリギリまでサイバーアップしたすご腕のカタナと対等以上の戦いを繰り広げる光景を。カタナのゴツゴツとしたサイバーアームから繰り出される直線的な一撃を、ひらりと身体を翻し羽根のようにかわしたり、真円の軌道でそれを払いのける様を見て、美しいとは思わないだろうか?

“ウェット”はサイバーにくらべ、動きにムダが無く滑らかである、とわたしは思う。その滑らかな動きの軌道もそうだし、肉体自体の曲線は、人が作ったものでは到底出しえない美しさがあると豪語したい。イメージの中でそれを感じ取ることができたのなら、あなたも“ウェット”に魅かれる一人であることは間違いないだろう。

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